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辺境を愛する旅人の書

やってみないうちに「善」も「偽善」もない

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わたしは、20年前に青年海外協力隊に参加し、その後もJICAの技術協力プロジェクトに関わる仕事をしてきました。

 偽善じゃないか?

昨年、開発コンサルタントの仕事をやめて、フリーな立場でモロッコに引っ越してきて、自分の正直な感覚に、よりフィットするやり方を手探りしていますが、それは、今でも「海外(途上国とか第3世界とか呼ばれる国)で、人々の役に立てるようになりたい」と、まあ相変わらず、懲りずに、そのような目標を持ち続けているからです。

 

これ、どのように聞こえますか?「偽善」なんじゃない?というように、聞こえません?

 

実は、「偽善なんじゃない?」という声は、わたし自身の中にあります。

 

わたしだけではないと思います。今まで、協力隊の仲間達や、前職で出会った人たち、特に理想を抱く若い人たちが、その「偽善なんじゃないか?」という声に悩み、押しつぶされそうになっている場面に、多く出会いました。

 

これ、海外での国際協力に限りません。震災ボランティアや、NPOの活動など、困っている人の役に立ちたい、社会貢献がしたいとの想いから、行動しようとする/している人々は、多かれ少なかれ、この声との内なる戦いを経験するのではないでしょうか。

 

そういう人を応援したいという願いを込めて、この記事を書いています。

 

 やらない善よりやる偽善

やらない善よりやる偽善」。この言葉、最近ネットに出回っていました。今、検索してみたら、元ネタは「鋼の錬金術師」だとか「2ちゃんねる」だとか、諸説あるようですが。

 

わたし、この言葉、好きです!

 

勇気をだして何か新しいチャレンジをしようという時、自分の中に、批判的な声や、制限するような考えが湧いてきて、行動を思いとどまらせようとすることは、良くありますね。コーアクティブコーチングでは、こういう声は「サボタージュ」と呼ばれています。

 

この言葉は、サボタージュを黙らせ、とにかくまずは行動してみようと、背中を押してくれます。わたし自身、この言葉に、とても励まされます。

 

ですが、そこから一歩進めて、そもそも「善」って、「偽善」って何だろう?と考えてみました。

 

コミュニケーションの大原則:意味は受け取られた時に決まる

まず、「善」、「偽善」というのは、人間が一人だけでは成り立たず、何人かの人間がいる、社会の中にいる、という場面で、はじめて出てくる概念ですよね。

 

そういう複数の人間がいる場面で、例えば、わたしが、自分以外の誰かのために、という気持ちで、何かの行動をします。その行動を受け取った相手が、何か良いものを受け取ったという気持ちになって喜んだ時に、はじめてその行動が「善」になるんじゃないかな。

 

そして、受けた側は、迷惑や不満を感じたのに、発した側が「ああ喜んでもらって良かった」等と勝手な自己満足をしたり、「わたしは他人のために、こんなに素晴らしいことをしました!」等と、自分の評価や評判をあげるためにその行動を利用するなら、それが「偽善」ではないでしょうか。

 

このように考えてみると、ですよ。

・実際に行動をとる前は、それはアイデアでしかありません。アイデアは「善」にも「偽善」にもなりません。(「いかにも偽善になりそうなアイデア」というのはあるのかもしれないけれど。)

 

・コミュニケーションの大原則として、受ける側が受け取った時に、はじめて意味が発生します。つまり、言葉でも、行動でも、発する側の意図が何であれ、受ける側に伝わってから、どういう意味になるか決まる。「善」になるかどうかは、何かが受け取られてはじめて決まる。発する側の当初の意図通りに伝わらない可能性は大いにある。そして、受ける側が、複数いたら、人によって違う意味で受け取る可能性も大いにある。受ける側の置かれている環境や状況、気分などが変化すれば、同じ人でも、その時々によって、同じ行動を異なる意味で受け取ることも大いにある。

 

・実際に行動をはじめる前、そして行動を続けながら、「偽善なんじゃないか?」と自らを疑うのは、極めて健全なこと。そのような疑いを持ってこそ、偽善になるようなやり方を避けられる。

 

つまり、やってみないうちには「善」でも「偽善」でもない。

 

アイデア自体は全く変わらないとして、たとえ「いかにも偽善になりそうなアイデア」だったとしても、その行動の進め方や、環境、状況、受け手が変われば、「善」として受け取られることもあるかもしれない!もちろん、この逆も同じく。

 

フィードバックを受け取ること

このように考えてみると、「偽善」になってしまうことが怖くて動き出せない人は、どうしたらいいのかが見えてきます。

 

まずは、受け手が何を求めているか、事前の情報収集。そして、アイデアを考え、行動をしてみる。そして、その行動の結果、受け手がどのような反応をしたか、フィードバックを見つめ続け、軌道修正をすることが、とても大切なのだと思います。

 

フィードバックを受け取るというのは、とても、勇気がいることです。そこで、また、「何の役にも立たなかったんじゃないか?偽善だったんじゃないか?」という、怖れが湧き上がってくるものだと思うのです。

 

そして、もし、自分の中に「せっかく無理して頑張ってこんなにしてあげたのに」という気持ちがあれば、ちょっとでもネガティブな反応が出てくると、頭に来たり、必死で言い訳したりと、素直に受け取るのがむずかしくなる。

 

フィードバックを求める方法も気をつけたいです。口頭での質問と回答で、率直な意見を聞くのは、よほどの熟練が必要ではないでしょうか。「よかったですか?」と聞かれたら、たいていの人は、親切だし、事を荒立てたくないので、ただ「はい」と答えてしまう。たいてい、何かしてもらった方は負い目を感じ、率直な意見が言えなくなってしまう。

 

「もう少しここがこうだったらな」という改善提案や、ネガティブな意見も含めて、率直なフィードバックを引き出すためには、信頼関係を築く事、上下関係を感じさせないこと、言葉にされないことを注意深く観察すること等、繊細な工夫が必要だと思います。口頭で直接は伝えにくいようなら、第3者が対応する、紙に書いてもらう等の工夫もあり得ます。そして、何より、きれいごとではなく、率直なフィードバックを引き出したい、という意思をもっていることが伝われば、多くの人は親切なので、相手の期待していることに協力してくれるのではないかと思います。

 

もし、そのようにして、フィードバックを得てみたところ、結局、自分の自己満足の「偽善」だったと、わかってしまったとしたら。。。それは、とてもショックで心が折れそうだけれど、手元に生の声のフィードバックがあるのだから、それを参考にしながら、次に、「偽善」から「善」にできるよう、努力すればいい。

 

それに、そこまで向き合う覚悟があるのなら、もうそれは「偽善」にはなるはずがないと、わたしは思いますよ。

 

第3者の声は、無視に限る

最後にもう一点。もしかして、今どきは、これが一番多いのかもしれませんね。自分の行動を受け取る相手ではない第3者に「偽善」だと言われるのが怖くて、動け出せない場合。

 

これは、もう無視!それしかありませんね。受け取る相手のフィードバックを見つめることも含めて行動をとるなら、その相手の反応で十分でしょう。関係のない第3者にとやかくいわれる覚えはありません。

 

例えば、最近、地震の被災地に折り鶴を送ることが「偽善」だ、と攻撃されているネット記事を目にしました。

 

外野から「偽善だ!」と攻撃する第3者の気持ちを、良心的に想像してみます。

 

「何が必要なのかを聞いて、必要だと頼まれたものを送った方がいいんじゃないの?」、「送りっぱなしで、受け取った人が、どのような気持ちで受け取ったのか、ちゃんと確認していないんじゃないの?」、という指摘かな、と想像しました。

 

それは、わたしもそう思う。もし、そうなら、そう指摘すればいいのにね。

 

無責任な第3者の「偽善」という批判が、何か自分にできることをしたいと勇気を出して行動する人々にブレーキをかけているとしたら、とても残念。

 

たくさんの人がいて、たくさんの状況があって、ある行動が結果として「善」になったのか、「偽善」になったのかなんて、遠くの第3者には判断しようがない。何度も言いますが、そう言う声は、無視するに限りますね。

 

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