辺境カフェ café frontière

辺境を愛する旅人の書

お金をめぐんでください、と言われた時に考えたこと

昨日、ラスパルマスで物乞いに声をかけられた。

 

貧富の差は、先進国でも拡大していて、失業の問題も世界のどこでも。途上国だから、先進国だから、物乞いが多い、少ないということが、なんともわからない世界になってきている。

モロッコの私の住んでいる町シディイフニにも、さほど多くはないが物乞いがいる。疲れた表情の女性が道端に座っていたり、薄汚れた服装のお年寄りだったりする。

バングラデシュに住んでいるときは、夜だいぶ遅い時間まで大通りに子どもの物乞いがいて、断っても通りを歩いているあいだ、ずっとついてくることがよくあった。

お金をめぐんでください、と言われた時に、どうするか。

昔、シリアで青年海外協力隊ではじめての海外生活をはじめた時、はじめはショックで心を痛め、何の解決にもならないから、お金を恵まないほうがいいという意見をきいては、恵まないことにしてみたり、イスラム教では持てるものが持たざるものに分け与えるのは当然のこととされている、という話をきいては、少しばかりのお金をわたすようにしてみたり。でも、お金を恵んでも、断っても、どちらにしても決して心地よく感じることはなく、毎回迷っていたし、心を痛めていた。

そのうち、迷うことや心を傷めることがが嫌なので、物乞いをされること自体に嫌悪感を覚えるようになった。目を合わせないようにしたり、早足で通り過ぎたり。

協力隊の仲間とも話し合ったことがある。子どもの物乞いには、食べ物をあげることにしてお金はあげないようにしている、という人がいた。インド映画「スラムドッグミリオネア」でもあったように、インドやバングラデシュでは、物乞いを総括するヤクザのような組織的があって、同情をさそって効果的にお金をあつめるために、孤児が障害を負わされたりする話しも事実なんだと思っている。

色々考えた結果、最近はどうしているかというと。

物乞いをされた時に、視線をそらすのでなく、断る時は、きちんと目をみて断るようにしている。「物乞い」と一括りで語っていること自体も失礼といえば、失礼な話で、物乞いをしていようが、一人一人、尊厳のある人間だから、最低限のマナーとしてそうしたいと思っている。

そして、お金をわたすかどうか、毎回、その場で決めている。物乞いには、お金を恵まないことにしている、とか、年寄りには渡すが子どもの場合は渡さない、などの信条を決めてしまったら、毎回迷う必要もなく、感情の揺れが少なくなり、確かにラクになるのだ。でも、決まった機械的な対応をすることは、要するに、意図的に感覚を鈍らせていることなんだと思う。感覚の停止、思考の停止、感情の停止。それでは、そもそも、何のために、慣れ親しんだ自国ではなく、異文化の中で暮らすのか、意味がなくなる。

確かに、心にバリアをはらないとやっていられない、という時もあると思う。そんな時は、バリアを張ることを心が求めているのだから、それでいいと思う。でも、そのバリアがもう必要なくなっても、ラクだからずっとそのままにしておくという怠慢がついついおこりがち。

経験は確かにわたしをタフにする。異文化に接しても、そうそう傷つくほどのショックを受けることは少なくなってきた。しかし、それはそれとして、せめて、人と接する時には、何度でも何度でも、生まれ変わったようにして、生身の肉体で、新鮮な感覚を開いて、目の前で起こることに、参加できたらと思う。