辺境カフェ café frontière

辺境を愛する旅人の書

バングラデシュ・ダッカのテロ

7月1日のダッカのカフェでのテロは、本当にショッキングだった。

無力感を味わう

 殺害された7人の日本人の方々は、国際協力の調査やプロジェクトを実施している開発コンサルタント。わたしは、前職では、まさに同じ立場で開発コンサルタントとして、バングラデシュに、年間合計3-4ヶ月ずつ、約5年間通っていた。事件の現場となったグルシャン地域でホテルやシェアアパートで暮らしていた。

亡くなった方々と直接の知り合いではないものの、みなさん、元同業者。知り合いの知り合い、とか、ひとりふたり、間にはさめば、つながる方々。そして、元会社の同僚も何人も同日にバングラデシュに出張していた。ちょうど少し前に元同僚がこのカフェの写真をFBにアップしていて、素敵だなあと思っていた感じのよいカフェ。わたしだって、もしダッカにいたら、週末の夜に食事にいって現場にいた可能性は少なくない。本当に、とてもとても身近なところで、起こってしまったテロ事件。他人事ではない。

亡くなった方々のご家族や近しい方々の悲しみや怒りは、いかほどだろう。今、現在進行形でバングラデシュに関わっている元同僚や、青年海外協力隊員や、その他、多くの人々の不安はいかほどだろう。そして、わたしにもとても親切にしてくれたたくさんのバングラデシュ人の友人・知人たち、亡くなった方々の身近にいたバングラデシュの人々、特に日本や、日本人にとても親しみをもってくれている多くのバングラデシュ人の人々の無念はいかほどだろう。

ずっと、インターネットで報道を見てしまう。考えれば考えるほど、言葉を失ってしまう。前後して、トルコでもイラクでもテロがあった。世界はどこに向かっていくのか。幸いわたしが住んでいるモロッコの町は、静かで平和なので、自分自身の日常生活に不安を感じるということはないのだけれど、では、自分だけ平和で安全ならいいのかと思えば、川底深く沈殿している冷たい泥になったような無力感を味わう。

当日、テロリストたちの進入時に、日本人のひとりが「わたしは日本人だ、撃たないで」と叫んだという報道があった。それに対して、今は日本人でもテロの標的とされているのだから、逆効果になりかねないという意見もあった。

しかし、わたしには、「わたしは日本人だ」と思わず叫んでしまった方の気持ちが、とてもよくわかる。バングラデシュの仕事に関わっている間、たくさんの身近なバングラデシュの人々から、日本は素晴らしい、日本は大好きだ、日本はバングラデシュの友だちだ、バングラデシュ人は日本人に親しみを持っている、と、日常的な交流から、直接的に間接的にも、頻繁に伝えられていた。そのような毎日を過ごしている中で、バングラデシュ人が日本人を撃つはずがない、という信念、信頼をもっていたからこそ、思わずそう叫んでしまったのではないかと想像すれば、とても苦しい気持ちになる。

どうぞ、バングラデシュという国を、バングラデシュ人を責めないで 

無力感で、言葉を失っていたのだが、ある記事を読んで、どうしてもこれだけは書きたいという気持ちになった。

今回のような大規模テロがあれば、メディアで連日取り上げられ、バングラデシュに行ったことのない人や、今までバングラデシュに関心をもったことのない人が、このテロを通して、バングラデシュのことを、連日、繰り返し聞くようになる。

すると、いつのまにか、意図してか意図せずか、「バングラデシュ=危険な国」、「バングラデシュ人=テロリスト」のような、誤った連想が日本社会の中に形成されてしまうことをわたしは危惧する。

確かに、今、バングラデシュに渡航するべきでないとか、現在の状況に応じた適切な安全対策をすることは、間違いなく必要だ。特に、昨今は、安全対策については、用心に用心を重ねても十分すぎるということはなく、十分な情報収集と対策をとるべきだと思う。

しかし、事件を起こしたのは、あくまでもごく少数のテロリスト。その反社会的な行動により、その国の多くの一般の人々は被害を受ける側の立場。こういった事件をきっかけに、その国の人々全体に対し、「危険な国、人々」というような、固定的な偏見を持つことは、まったく間違えている。

イスラム教に関してもそうだ。イスラム、モスリム(イスラム教徒)という言葉は、「サラーム(平和)」を語源にしており、平和を求める宗教だ。テロリストが、凶行にあたって「アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)」と叫んだ、コーラン(イスラム教の経典)を唱えさせできない人に暴行・殺戮したとの報道があったが、その事実をもとに、イスラム教がテロを後押ししたというように考えるのは、間違っている。どの宗教でも、曲解され、悪用されることはあり得る。

例えば、今回の事件をきっかけに、日本や他の海外で暮らしているバングラデシュ人の人々、イスラム教徒の人々が、偏見の目で見られたり、肩身の狭い思いをするようなことがないように、と心から願う。

どうぞ、この記事を読んでほしい。今回のテロでは、2名のバングラデシュ人も亡くなった。イスラム教徒であれば、逃げるチャンスが与えられたのに、一緒にいた外国人の友人を置き去りにしたくないという選択をし、犠牲になったバングラデシュの人々がいるのです。

www.nikkei.com

 

わたしは、将来的には、今回の事件でテロリストになってしまった若者達に対して、非道な犯罪者、と裁いて終わりではなく、何が彼らをそこに追いやったか、そうならない社会にするには、どうすればと、思いを寄せて具体的な行動をとれるようになりたい。

大変残念ながら、今のわたしには、何もできない。

ただ、非力ながら、せめて、今回の事件で、私たちと同じく被害者の立場、怒り悲しんでいる立場である、たくさんの善良なバングラデシュの人々、イスラム教徒の人々が、誤解をもとに責められたり、暮らしにくくなったりしないようにと、切に願う。

そして、報復、排除、対立といった、憎しみの連鎖のない世界でありますように。

 

最後にあらためて、亡くなった方々のご冥福を、心からお祈りします。

 

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