辺境カフェ café frontière

辺境を愛する旅人の書

「役に立たねばならない」をやめようとして「役に立ってはいけない」をしていた話

 

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自由の女神よ、女神よ、女神様。

どうして、わたしは、本当は、自由なはずのに、わざわざ自分で自由じゃないようにしてしまうの?

「役に立ちたい」と「役に立たねばならない」

わたしの話です。

だれかの役に立ちたい、という気持ちは、マズローの欲求段階にも入っているぐらいなで、たぶん人間として、ごくごく自然に生じる欲求の一つ。

役に立ちたいという気持ちを持って、行動したとして、別に立派なことでもないし、かと言って、その気持ちや行動を否定することでもない。その気持ちを自然体で扱いたいと思っています。

しかし、わたしの今までの人生を振り返ってみると、はじめは「役に立ちたい」だったはずが、だんだん「役に立たねばならない」になっていなかったか。役に立つことで、自分の価値を証明しなければ、と躍起になって、周りを見失って、利己的な自分勝手になってしまっていたのではないか。「本当にやりたいこと」ではなくて、「ねばならない」に追い立てられ、苦しくなっていなかったか、と振り返ります。

役に立たなければ、自分の存在価値はない、という思考パターンが染み付いてしまっている。

そこで、モロッコに来た当初は、「地元女性の生計向上の役に立ちたい」と言っていたのですが、どこか、また「ねばならない」が忍び込んできている気配を感じ、最近は、そういうことを言うのをやめてしまいました。

むしろ、何の役にも立たないわたし、それでも、地元の人に親切にしてもらって、一緒に時間を過ごすだけで、喜んでもらえる。それを、じっくり味わうことが、いまは、大切なのだろうと考えています。

わたしが、誰のためでもなく、自分の心の中心から、「なんとしてもやりたい!」と思うことは、「他人の役に立つため」を手放せた時に、はじめて、湧き上がってくるものだと考えたからです。

 

「役に立ってはいけない」という落とし穴にはまった

他人の役に立つためを手放し、なんの役割も担わない、という生活。それは、はじめのうちは、開放感に溢れた幸せなものでした。朝起きて、何時にどこに行かなければも、いつまでに何をしなければも、何もない生活。

 

わーい、自由!!

 

という開放感を感じていたのは、ほんのつかの間。なんの役割も担わない生活は、だんだん退屈で、張り合いがないものに感じ出します。毎日、目覚めた瞬間から、幸せが感じられない。

何か役に立つことをしなければ、という焦燥感、どうせわたしは何の役にも立てないんだ、という無力感。

それを、なだめて、なだめて、何の役に立たなくてもいいんだよ、いまはそれを味わってみるんだよ、と自分に言い聞かせて粘っていたのですが、だんだん、他人の役に立つうんぬんどころか、何をする気力もなくなっていく。エネルギーが失われていく。

自分の心の中心から、「なんとしてもやりたい!」と思うことに湧き上がってきてほしくて、「役に立たねばならない」を手放したはずだった。でも、こんな調子では、何も湧き上がってきそうにない。何かが溝のようなものにはまり込んだ感じがする。

 

そこで、はっと気づきました。

「役に立たねばならない」をやめようとしているはずだった。でも、気づけば、いま、「役に立ってはいけない」をやっている。

 

はー。だめだこりゃ。

義務、禁止、義務、禁止。

「〜ねばならない」、「〜してはいけない」

 

今までの人生、どれだけ、そんなことばかりを繰り返してきてしまったのか。たぶん、それは外から強いられたものだけではなく、自分が自分自身に対して課したものも、たくさん。

それが習慣になってしまって、いま、フリーランスで、本当に自由な立場になったはずなのに、素直に単純に「〜したい!」という、自分の欲求を見失っている。気づけば、義務とか、禁止とかに、吸い寄せられてしまっている。

 

本物の自由というのは、そんな義務とか禁止とかの鎧のようなものからは生まれないし、その鎧を避けよう、避けようと意識している限りは、自由ではないんだ。たぶん。

 

自由というのは、ぐっすり眠って、気持ちのよいさわやかな朝の目覚め、その時、そこにさす光のようなものだと思う。心の思い込みを外せれば、ただ自然にそこにあるようなものなのだと思う。

 

まずは、とにかく、自分がうれしいこと。喜ぶことをしよう。探そう。

 

宣言「わたしは、わたしの本物の自由を取り戻します」

 

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