辺境カフェ café frontière

辺境を愛する旅人の書

「気を使う」について

「気を使う」という言葉は、慣用句のようになって、よく使われていますが、それってよくよく意味をかみしめてみると、「気」「使う」っていう意味なんだよなあ、と思います。

「気」というのは、空手家とか、合気道とか、気功の達人とかでなくても、実は、みなその気になりさえすれば、使えるものらしい。

 

でもね、「気を使う」という言葉は、ちょっと要注意なんじゃないかな。本当に文字通り?

 

たとえば、「友達に気を使って、先に帰りたかったのだけれど言い出せなかった」などという場合。

あたかも、配慮があって、思いやりができるやさしい人のように聞こえますが。

 

それって、「気」を何に使ったのでしょう?

 

友達やその場の感情を読むために、使ったのでしょうか?

 

あくまで、わたしの自己分析からの考察ですが、「気を使う」と言いつつ、実際は、そういう時に、あまり「気」は使っておらず、自分の過去の記憶を読みに行っているだけなんじゃないかなあと感じました。

 

過去に失敗した記憶。傷ついた記憶。

 

わたしは、人からどう思われるか、どう見られるかを、いつまでたっても、とても気にしていて、まだまだ、なかなか、そこから自由になれない。(これを書いているそばから、「こんなこと書いたら、『いやいや、あんた、何言っている。あんたほど、自分勝手、好き放題やっている人はいない』って、誰かに思われるんじゃないか。」という声が聞こえてきます」)

 

そういう、「人からどう思われるかを気にするわたし」は、やけに記憶力がよく、そして用心深い。過去に、一度でも、失敗したり傷ついたりした経験を、執念深く覚えていて、また同じようなことが起きないようにと、常に警戒している。そして、何かというと、ブレーキを踏むのです。

 

「気を使う」なんていう、美しいそれらしい言葉を使っているけれど、単に自分が傷つかないように、守ろうとしているだけ。

 

「気を使う」のならば、自分の過去の記憶を読みに行くために使うのでなくて、本当にその場で起こっていることは何か、今、目の前にいる相手は何を感じているのか、そういうことをライヴで読み取るために、「気」「使う」ようにしたいなあ。と思うのでした。

  

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