アラビア語に、「アラー(神さま)」という言葉が、はいった表現が、たくさんあります。特に「ハムドリッラー(神さまのおかげで)」、「インシャアッラー(神が望むなら)」というのは、モロッコでも、他のアラブの国でも、とてもよく耳にする表現です。
「ハムドリッラー」の使い方
これは、直訳すると「神さまのおかげで」という意味です。
日本語でなら、「おかげさまで」とか、「ああ、良かった」と言うようなときに、使います。
モロッコでは、日々の挨拶でこれを頻繁に聞きます。
誰か、人と会うたびに、
「ラバース?元気ですか?」
「ラバース。ハムドリッラー。元気です。おかげさまで。」
「ハムドリッラー。クルシー メジヤーン?それは良かった。すべて、順調ですか?」
「クルシー メジヤーン。ハムドリッラー。すべて順調です。おかげさまで。」
「ハムドリッラー。ママック、ババック、ラバース?よかった、よかった。ご両親も元気ですか?」
「ハムドリッラー。ラバース。おかげさまで、元気です。」
「兄弟は、・・・」
・・・(以下同様)
という挨拶が、互いにえんえんと繰り広げられます。
他に、例えば、
「子どもが転んだけれど、怪我しなかった。ハムドリッラー」
「空港到着が遅れたけれど、フライトに間に合いました。ハムドリッラー」
というように、使います。
大家さんの「ハムドリッラー」
「ハムドリッラー」の意味が、とても、腑に落ちた会話がありました。うちの大家のおばさんとの会話です。年の頃は、50代前半ぐらいかな?
出会ったばかりの頃です。まずは、わたしが自己紹介をして、父母はどこに住んでいて、兄弟は何人で、と一通りの質問に答えた後(モロッコでは、家族のことを一通り質問されることはとても多い)、大家さんにも、家族のことを聞きました。
大家さん「夫は、フランスと、モロッコを行ったりきたりしているの。娘は、5人いるのよ。一人は、結婚してカサブランカに、一人はグールミンの大学に、一人は・・・」
わたし「息子さんは?」
大家さん「息子は、いないのよ。娘だけ。」
そこで、わたしは、一瞬、「あら、悪いこと聞いてしまったかしら。」と焦ったのです。日本の田舎でもよくあるように、お嫁さんの役割は、後継の息子を残すこと、というような考え方が、モロッコでもよくあると聞いたことがあったので。
その時に、大家さんが心をこめて、いいました。
大家さん「ハムドリッラー。女の子はいいわよ。問題も起こさないし。お母さんによくしてくれるし。」
わたしもつられて、心をこめて「ハムドリッラー。女の子、いいですよね!」
そうか、「ハムドリッラー」って、こういう感じなんだ。
子どもの性別は、人為的に選ぶことはできない。神のみ心のままに。言い換えれば、自然のはからい。自分に与えられた状況に、不満を抱かず、平和な心で感謝する。その時に出てくることばが「ハムドリッラー」。
日本にも、「男の子が生まれないと嫁は認められない」という考えの人もいるだろうし、神のみ心、自然のはからいのままに、という考えの人も、たくさんいますよね。
子どもは授かりもの
そのあと、別の場所で、別の人と、こんな会話もありました。
こちらの仕事場で、わたしと同じ歳(44歳)の女性がいて、いつも、まるで母のようにわたしを気遣ってくれるし、色々興味をもって、わたしに質問します。彼女も独身です。
「あきこ、もう結婚しないの?モロッコ人はどう?結婚して、モロッコにずっと住んだらいいわよ。結婚したら、子どもは何人ほしい?」
わたしが「えー、もう40代中盤で、子どもはむずかしいかも」と言ったら、おこられました。
「何を言っているのよ!そんなの、わからないでしょ。子どもはできる時にはできる、できない時にはできない。神さまの思し召しよ。年齢は関係ないのよ。」
確かに。
年代ごとの妊娠・出産率の統計、高齢出産の危険、そういう知識に触れた量は、わたしの方がはるかに多いのかもしれない。でも、そうやって、一般論や知識で、自分のことをわかっているつもりになっている人と、彼女のような考え方では、どちらか、生き物として、賢いでしょう?
結局のところ、統計は統計、傾向でしかない。わたしにとって、彼女にとって、あるタイミングに、何がおこるのか、それは、やはり、神さまの思し召し次第で、年齢は関係ないのだと思います。
「インシャアッラー」を嫌わないで
このような、「ハムドリッラー」に触れてから、「インシャアッラー(もし神さまが望むなら)」という言葉を考えると、今までとは違うように見えてくるかもしれません。
今までとは違うように、というのは、どういうことか?
中東・アラブ諸国で生活をしたことがある人、多かれ少なかれ、この「インシャアッラー」にイライラさせられたことがありませんか?わたしはあります。
シリアに住んでいた頃、日本人の間で、「アラブのIBM」なんていうジョークをよく話しました。IBMとは何かというと、
I = インシャアッラー(神が望むなら)
B=ボクラ(明日)
M=マーレイシュ(気にしない)
たいてい、何かの修理を頼んだ時、職場で期限の厳しい仕事をしている時、などに、このイライラが、おこります。
たとえば、こちらが、「じゃあ、明日の10時に来てください」というと、返事は「インシャアッラー」。
ええ、怪しい、と思っていると、案の定、10時になっても、何時になってもこない。電話してみると、なんやかんや言い訳をして「ボクラ(明日)」。でも、明日になっても、やっぱり、まだこない。こちらが、イライラしているのに、のほほんとした顔をして「マーレイシュ(気にしない)」。
こういうことが、繰り返されると、
「インシャアッラーっていうのは、責任逃れのために使う表現なのか?!」と、この表現が、嫌いになってしまいます。イライラして「インッシャアッラー、じゃないだろう。アキード(絶対)だ!」と怒ったこともあったかも。
もちろん、約束を守らないのは良くない。確かに、人によっては、「インシャアッラー」を、軽々しく安請け合いの時に、使いすぎている人もいる。
でも「インシャアッラー」という考え方は、本来、そういうことじゃないはず。子どもを授かった時に「ハムドリッラー」と、神に感謝するのと同じような、平和で謙虚な心持ちで「インシャアッラー(もし神さまが望まれるのなら)」と言うのが、本来の「インシャアッラー」の使い方なんじゃないか、と感じます。
軽々しく約束をしてそれを守らない人に対し、イライラするのはともかくとして、「インシャアッラー」という表現自体に対してイライラするのは、全くもって、お門違いなんですね。