辺境カフェ café frontière

辺境を愛する旅人の書

劣等感、罪悪感という麻薬

しばらく前から気づいているのに、なかなか手放せないものがある。劣等感、罪悪感という名の麻薬。

 

いろいろなことが滞ると、思いを巡らせて反省して、劣等感や罪悪感に帰結し、そこでまた滞るというパターンが繰り返し起こっている。

わかっているけれど、なかなか、抜け出せない。

劣等感、罪悪感を感じてさえいれば、それに免じて、許されると思っているかのよう。

許される?誰に許してほしいのか?

行動の後で、内省したり、反省したりすること自体は、いいのだと思う。自覚を高めるために。ただ、反省点がみつかった時に、反省を抱きしめて、劣等感や、罪悪感を感じて、苦しみ続けていれば、それに免じて、許されるんじゃないかと、無意識が期待する、それが麻薬。

そんなはずないよ、ということもわかっている。そもそも、多くの場合には、実際には、他の誰を傷つけたわけでも、迷惑をかけたわけでもなく、自分の思った通りにいかずに自分が傷ついたと、というだけなので、他の誰かから許してもらおう、と思っていること自体が、おかしい。

「許されたい」という無意識の願いが、もし本気なら、本当は、自分が自分を許すことによって、その願いが成就することもわかっているはずなのに。

劣等感、罪悪感を抱いて、自分を責め続け、さらには、自分で自分を許せない、ということも、利用して、さらに自分を責める。

実は、それは、許されて、もう一度、立ち上がって、新しい行動をはじめると、またうまく行かなくて、また傷つくかもしれないから、それを防ぐための無意識の防御機能なんだと思う。たぶん、「許されたい」には二重の意味があって、「過去のあやまちを許される」、というだけでなく、現在、未来で、新しい行動をとらず、縮こまってとどまっていてるのも、しかないね、と許される、という意味も潜んでいる。

だから、劣等感、罪悪感を抱いてさえいれば、それに免じて、許されるかもしれない、という無意識の期待の裏で、そんなことしても、誰も許してくれないということも、実はちゃんと知っている。いつまでも許されないということが、傷ついている自分の言い訳になるから、ずっと傷ついて、劣等感、罪悪感を抱き続けて、とどまっていたい。人生の次のステップを踏み出すことから、免除されたい、と画策している。

それを繰り返すうちに、だんだん、行動する時から、無意識が、劣等感、罪悪感という箱の中にとどまれるように、調整して行動するようになる。どこか、ブレーキをかけながら行動して、そして、うまくいかないと「ほらね。やっぱりうまくいかなかった。やっぱり、わたしは、だめなんだ。うまく行くわけがない。なぜなら、わたしは、理想が高すぎる、頭で考えすぎ、人の話がきけてない、かわいくない、太っている、〇〇すべきではなかった(などなど、ありとあらゆる自分の欠点や反省)・・・」というように、まんまと劣等感、罪悪感の箱の中にとどまり続けることができる。

許されたいといいつつ、実は許されたくない。許されないように、劣等感、罪悪感が消えないようにと、調整している。なんて、巧妙、かつ不毛でバカな、手口。ぐるぐるぐる、同じところをまわる。

この不毛な停滞から抜け出して、もう一度、流れ始める方法も頭では知っている。自分で自分を許す。肯定する。それしかない。

たぶん、許されたと本当に実感して、何の問題もない、このままの私で大丈夫、と劣等感も罪悪感も本当に手放せたら、表面的にでなくて、無意識のレベルで手放して身軽に自由になったら、失敗や、傷つくことへの恐れも手放せて、次の行動がおこせる。

神さまにお祈りし、神様に許してもらい、そして、神様が許してくれたのだから、自分も許す、とか、瞑想やヨガで無意識にアクセスするとか、そのための、具体的なやり方なんだと思う。

ほら、今も、「自分ができていないのに、こんなこと書く権利がない」って、聞こえてくる。ふふふ。

 

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