辺境カフェ café frontière

辺境を愛する旅人の書

「大事なものは、たいてい面倒くさい」by宮崎駿

NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」での発言だった

宮崎駿さんの「大事なものは、たいてい面倒くさい」という発言に関する記事が、Facebookのタイムラインに流れてきた。

 

テレビをみていないのだが、WEBで検索してみた限り、NHKの「プロジェッショナル 仕事の流儀」の特別編が最近放送されて、おそらく、以下の2013年8月に放映された宮崎駿スペシャルの場面が再放送されたのだろうと思う。

www.nhk.or.jp

 

やっぱり「面倒くさい」んですね?そうですよね?!

宮崎さんが、絵コンテを描きながら「面倒くさい、面倒くさい」と連発していたという。

 

おお!

宮崎さんでも?!

やっぱり!?

 

これは、本当に、励まされる。

 

わたしは、昨年から人生の舵を切り直しているところで、今後、何に力を注いでいくのか、何で生計を立てていくのか、人生で具体的に何を成し遂げたいのか、ということを、なかなか決められないでいる。

 

いろいろと、アイデアはあるのだけれど、それが本当に自分が心から好きなことなのか?熱中できるのか?普段の自分が気づいていない潜在意識が、「使命」として知っていることか?そういう方向に修行をして、成長していきたいのか?と考え始めると、「うーん?どうかな?」と、足が止まってしまって。

 

正直いえば、何をするにも、とりかかる前には、ちょっと面倒くさいと感じる。

 

たとえば、ものを書くことを仕事にできたら素敵かも、と考えてみたりもするが、このブログを書くのも、書き始めるのが面倒くさかった。

 

たとえば、わたしは旅が大好きだが、そんなに旅をしない。せっかくモロッコに住んでいるのだから、週末ごとに小旅行ぐらいしてみても?と思うのだけれど、そう頻繁には旅をしない。その理由も、「面倒くさい」からだ。

 

「面倒くさい」ってことは、本当に魂が喜ぶほど好きではないのかもしれない、だとすると、次第に苦痛になって、継続できないかもしれない、だんだん「ねばならぬ」といった義務感になっていくかもしれない、だとすれば、それは向いていないということかもしれない・・・「面倒くさい」と感じるたびに、そういう風に思っていた。

 

でも、でも!宮崎駿さんがアニメの絵コンテを描くという、誰がどうみても「天職」と思うことをしている時でさえ、面倒くさいんだ・・・!それは、面倒くさいからと言って、向いていないというわけではない、という、何よりの証明ではないか!

 

「大事なもの」だから、面倒くさくなるのかな?

わたしが、今後、何に力を注ぐかについては、まあ、ゆっくり考えれば良し、と思ってはいるので、最近は、「料理」とか「編み物」とか「家を快適にする小物作り」とか、東京の会社に勤めていた時は全く忘れていたような手作り系のこと(でも、じつは高校生や大学生の時には、やったことがあり、結構好きだったこと)に、毎日のけっこうな時間をさいている。

 

それは楽しく、充実感もあり、さらに、リハビリをしているような、何かを取り戻しているような感覚がある。たぶん、東京で暮らしていた時に、自分の中のそういう要素を無視しすぎていたのだろう。

 

そういう、ちょっとした手作り系のことをするのは、あまり面倒くさくない。気軽に取り組めて、楽しい。時間があいた時に、ちょっと前まではFacebookの記事を読んだりして時間をつぶしていることも多かったが、それは、いかにも「暇をつぶしている」という感じで後味が悪かった。他方、手作り系のことをしている限りは、有意義なことをしている、生活を豊かに彩っているという達成感がある。単なる暇つぶしという感じではない。

 

かといって、プロの料理家になろうなんてつもりは全くないし、手編みの小物を販売しようとも思っていない。つまり、そういうちょっとした手作りは、自分の生活ではあるが、社会との接点という感じではない。「使命」とか「天職」とは関係ない。だからアウトプットの質がどうでも、自分自身がプロセスを楽しめれば十分。

 

まあ、言ってしまえば、それらは、自分にとって本当に大切なこと、大事なことではないのかもしれない。だから、気楽に取り組めるし、楽しいし、面倒くさくもない。

 

ひるがえって、「使命」とか「天職」というような、自分にとってもっと大事なことは、結果の質も大事なので、いろいろ、そのやり方や過程について思い悩むことも多い。納得のいくアウトプットのためには、それなりの修行も熟練も必要だろう、自分には才能がないのではないか、という内なる葛藤もある。いくら自分が「好きなこと」、自分にとって「楽しいこと」とは言っても、それはお気楽な、お手軽な、という意味では、まったくない。

 

そのように、いろいろ考えてしまうので、「大事なこと」であればあるほど、面倒くさくなってしまうのかなと思う。

 

「堪ふる限りの力を尽くして生きる」

上にリンクしたNHKの「プロジェッショナル 仕事の流儀」の記事の中では、宮崎さんはこうも言っている。

 「自分たちに与えられた、自分たちの範囲で、自分たちの時代に堪(たふ)る限り力を尽くして生きるしかないんです」

 

そう、そうなんだ。わたしも、そういう感じ「堪ふる限りの力を尽くしている」という感じが、懐かしくなってきたんだ。 のほほんとのんびり気楽に生きているだけでは、満足できない。

 

わたしが、「面倒くさい、面倒くさい」と言いながらも、やりきって「力を尽くしている」と言い切れるようなことが、見つかるかな。いつ、見つかるかな。

 

にほんブログ村 海外生活ブログへ
にほんブログ村