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書評 「ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー」(由佐美加子、天外伺朗著)

「ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー」(由佐美加子、天外伺朗著)という本を読みました。

 

この本にはメンタルモデルの4類型が紹介されています。

・「価値なし」モデル

・「愛なし」モデル

・「ひとりぼっち」モデル

・「欠損・欠陥」モデル

 

 

メンタルモデルとは 

多くの人は、心の底に「わたしには価値がない」、「わたしは愛されない」、「わたしはひとりぼっち」、「わたしには何かが足りない・欠けている」という、思い込みを抱えているそうです。その痛みは、子どもだったころに信じた思い込み、さかのぼれば「バーストラウマ」と呼ばれる、この世に生まれ落ちた時から抱える傷や痛みを基にして、こういう思い込みを抱いており、誰しもが多少の差こそあれ、このすべての思い込みを共通してもっているとのこと。

 多くの人は、その思い込みによるおそれや、不安に駆り立てられ、または、乗り越えるため、忘れるために、絶え間ない努力をしている。しかし、おそれ、不安といった「欠乏感」を燃料に行動する限りは、不本意な現実が繰り返されると書いてありました。その、「欠乏感」に基づいた、生き残り戦略ともいえるのが「メンタルモデル」。それぞれの人にメンタルモデルがあって、一つに絞り込むことができるといいます。

 

わたしのメンタルモデルは何だろう?

自分のことに照らし合わせてみて。

どのメンタルモデルだろうか、はじめはわかりませんでした。「わたしには価値がない」、「わたしは愛されない」、「わたしはひとりぼっち」、「わたしには何かが欠けている」という感覚は、すべてを持っている(そのときどきで強く感じるものが変わる)気がします。

しかし、生き残り戦略として使っているもの、という視点で考えてみれば、特に、子どもの時から成長していく過程で、さらに、4年前に離婚して会社もやめて、人生の転換をはかったときの直前まで、盲目的に活用してきた戦略は、明らかに「価値なしモデル」だろうと思いました。

価値なしモデルの人は、

(こんなにやっても)「やっぱり自分には価値がない」。何か価値を出さないと、自分の価値は認めてもらえない

 と思い込んでおり、自分自身がその思い込みから、人からの期待に応えるたり、評価や承認を得るために、必死に努力して休まず働き続けるので、他の人に対しても、頑張ろうとしない、やる気がない人、価値を出せない人のことが理解できず、許しがたい、となっていきます。

または、逃避し、「勝てない争いはやめよう」と、本当はできるのにやらない人、心の火を消し、目の前で起こっていることに参加しないよう距離をとる人になっていきます。

わたしは、痛いほどに思い当たる節があります。

本当は価値がないのが、ばれないように、そして、少しでも他人から価値を見出してもらえるように、猛烈に必死に努力をし、人よりも長時間頑張ること、ぼろ雑巾のようになるまで自分を追い込むことができる、ということを誇りにまでして、自分の価値を生み出そう、証明しようと躍起になってきたのです。

しかし、それが限界に達してきたころ、時を同じくして、コーチングを学んだり、タロットなどの内省のツールを学び始め、こんな風に生きていくのが人生ではないはず、と思い直しましたのが2015年。転換を図りつつも、どう転換するのがわからずに苦しんでいるのが、ちょうど、以下の記事を書いたころですねえ。

これを読んで、ああ、わたし、やっぱり「価値なしモデル」だ、と確信した。。。

 

ikiru.hatenablog.jp

 

メンタルモデル診断 ウェブサイト

この本の著者、由佐美加子さんによる、本と連動したウェブサイトもあります。

このウェブサイトで、本の一部が読めます。そして、自分がどのメンタルモデルかわからないという人のため、楽しみながらできるメンタルモデル診断も用意されています。動物のキャラがかわいい。

http://mentalmodel.jp/#type

ははは。そうそう。わたし、もともと「競馬馬のライリー」。そして、最近はだいぶ「放牧場のミーン」。はははは・・・(ちょっと、笑ってもいられないかも。。。)

 

「適合期」→「直面期」→「自己統合期」→「体現期」→「自己表現期」

さて、この本の中には、メンタルモデルを作り上げて強化していくところから、このモデルの限界に気づいて、そこから離れ、本当に自分の人生を生きられるようになるまでの道のりが、「適合期」→「直面期」→「自己統合期」→「体現期」→「自己表現期」という流れで紹介されています。

これで見ると、わたしは、「直面期」、「自己統合期」のあたりを、行ったり来たりしているかしら。しかし、行ったり来たりしてばかりで、人生を浪費するのもそろそろうんざりしてきました。 

さらに、わたし、もともと、だいぶ「競馬馬のライリー」。そして、最近はだいぶ「放牧場のミーン」だとの自覚があります。「放牧場のミーン」になっているってことは、「直面期」、「自己統合期」のあたりを、行ったり来たりさえもしていないのか。いつの間にか、「適合期」に逆戻りしているわけです。そんなことなら、ずっと「競馬馬のライリー」だったほうが、少しは社会に貢献していた気もします。(あ、また、価値なしモデルらしいコメント) 

今、また、思い切って、腹を据えてグググッと動かすときがきた、機が熟した、という感じがしています。(どうやら、そういうタイミングで、わたしはブログを書き始めるようです。)

 

「自己統合期」-メンタルモデルからの脱却のために

この無意識のメンタルモデルからの脱却のために、この本で紹介されているのは、まずは、そのメンタルモデルに気づくということ。そしてそこから脱出しようという意思。

そのプロセスは、本の中では、著者の由佐美加子さんセミナーの実録として紹介されています。

この自己統合期は、自分の中に本当はずっとあった、『自分は本当はどういう世界をここに望んでいるのか』ということを思い出していくフェーズなんですね。思い出すために何をしないといけないかというと、適合期で作った、ある・ないとか、良い・悪いとかっている、自己分離を超えていくという。だから、言い・悪いという世界、正しい・正しくない世界、二元論の世界が内側にあるんですけど、それを超えて、あるものが全部、本当にただあっていい、というふうに、内側で判断や評価をやめて自分の器にある分離を統合していく。

(中略)

この過程は一言では説明できないジャーニー(旅)のようなものですけど。

 

自己統合期にどうしても必要なのは、意思なんですよね。怖れが絶対にブロックをかけてくるので。。

(中略)

いろんな抵抗が自分の頭の中でささやかれているはずなんですけど。でもね、自分の意志で、いや、もう、それはいいんだ、って。自分は、本当に、自分の中に、やりたいことをやりたい、があるから。

(中略)

意思はどこから生まれるかということ、自分への愛です。それ以外、ない。自分にこの体験を、この体を通してさせてあげたい、というのは自己愛の世界。 

 

『頭(顕在意識レベルの思考)で理解しても、何も動きません。無意識(普段の生活では触れることのできない潜在意識)レベルのアクセスがどうしても必要になります』

うーむ。。。頭で理解しても何も動きません、というのは、本当にその通りだと思います。実際、わたしが今そうだから。

 

 

「 価値なしモデル」の人の共通の願い

「直面期」から「自己統合期」に向けて、自分のおそれや不安に支配されている状態=「分離」した状態に気付き、無意識や潜在意識において納得した上で、内的な統合を実現していくためのフェーズは、言い換えれば「自分は本当はどういう世界をここに望んでいるのか」ということを思い出しているフェーズだそうです。

 

「自分は本当はどういう世界をここに望んでいるのか」

 

その問いに答えが出てこないとしたら、この本によれば、価値なしモデルの人は、長い間、他人からの評価や承認を求めて「他人軸」で生きることに慣れてしまっており、「自分軸」を見失ってしまったことが、一つの原因。

そして、価値なしモデルの人が、共通に願っている「創りだしたい世界」は、こんな世界だそうです。

何ができてもできなくても、自分はいるだけで価値がある、誰もがいるだけでいいと認められる、存在する価値ですべての人の価値がみとめられている世界

 うーん。今のわたしには、すんなり入ってきません。この本にそって説明するなら、まだまだ「価値なしモデル」にどっぷりはまってしまっているからでしょうか。

心の中で、こう言っているのが聞こえます。

「いるだけで価値がある?ケッ。何を言っているんだか。いるだけで価値があるなんて、そんなわけ、ないでしょう」 

 

わたし自身は、本当はどういう世界をここに望んでいるのか

私自身のことを考えた時、「わたしの人生というジャーニーを全うしたい」、「いのちを燃やし切っていきたい」という想いはあります。切実なほどに。

しかし、わたしにとって、「人生のジャーニーを全うするとは、どういうこと?」、「いのちを燃やし切るとはどういうこと?」と、さらに一歩踏み込んだ問いをたててみると、明確な答えが、みつからないのです。

「何かがあるはず」、と探し続けること自体が「ジャーニー」なんだと信じていたこともあります。でも、「何かが足りない」という想いの方が、いつでも次第に強くなってしまい、探し続けるというモチベーションが続きません。

この本にあったように、確かに、「長い間、他人からの評価や承認を求めて『他人軸』で生きることに慣れてしまっており、『自分軸』を見失ってしまった」ような気がします。

旅を続ける旅人には、目的地が必要です。

その目的地を見出すための「自分は本当はどういう世界を望んでいるのか」という問い。この問いが、今の自分にとって、とても大切な問いであるということを、実感しています。

潜在意識に働きかけるための「メンタルモデル瞑想」がこの本の最後の方に紹介されていました。

「価値なしモデル」の人は、このスートラを108回唱えるというもの。

『私はありのままの自分で、ただここに存在しているだけで十分に価値があると自分を認める』

1回だけやってみましたが、正直に言って、違和感が満載でした。ケッという想いがぬぐいきれません。1回だけしかできませんでした。

『スートラを唱えることに若干抵抗感を覚える人が、かえって大きな変容を遂げることがわかりました』

とも、本の中に書いてありました。なにか、見透かされているかのようです。この瞑想は「上級編」だとも書いてあります。

 

「いるだけで価値がある」→ネコなら、そう!

「いるだけで価値がある」を自分に対して、潜在意識から体感・実感するところで、スタックしている今の私です。

しかし、そんな私でも、「ああ、いのちがありのままで、ただ存在しているだけで、十分に価値がある!」と実感できる瞬間はあります。それは、ネコたちと過ごしているとき!

ああ、ネコたちといったら!

何の役にもたたなくとも、いや、むしろ、なんの役にもたたないからこそ、ただただ、そこにいるだけで、なんと価値のある尊い輝くいのちだろう!何もしなくてもただいるだけで、私を幸せと微笑みでいっぱいにみたしてくれる。

いるだけで、価値があるっていうのは、こういうことか。ネコたちのことなら、実感として体感としてよくわかるのです。

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「そら」と「とら」

人間については、まだちょっとよくわかりません。

 ジャーニーは続きます。